人気ブログランキング | 話題のタグを見る

清めの塩

清めの塩_a0398861_13555087.jpg

写真は、よく目にする「清めの塩」です。
 昨年11月に亡くなった義姉の葬儀の際には、「清めの塩」はありませんでした。その代わりに次の様な文章の書き付けがありました。趣旨を抜粋してみます。

 葬儀に共通した習俗の 一つとして「塩」を使うということが有ります。葬儀 における「塩」は「キヨメ」と称して使われます。「火葬場」から帰って来た時、あるいは「埋葬」から戻った 時「塩」によってキヨメてから家に入るという慣習が 広く行われています。日本の各地で広く行われているということ は、日本人の慣習であると言えるでし ょう。
 では何故、何をキヨメなければならないのでしょ うか。 それは、「死」あるいは「死者」に関わることにより「ケガレ」がうつったからだと考えられます。
 この慣習から見える ことは、私達が「死」を、あるいは「死者」を「ケガレ」として見ているという悲しい現実です。葬儀の時に「塩」を使うという行為は、 一見何でもない行為に見えます。単なる世間の慣習として行っているだけで、私達の生活には何の影も無いように見えます。しかし、「死」を「ケガレ」 とする意識は、「塩でキヨメる」という行為によってますます強くなっていきます。
 はたして、ケガレた存在としての「いのち」などというものが有るのでしょうか。そもそも「死」はケガレなのでしょうか。
 生前、父上母ょ、兄弟よ友よと呼び、親しんできた方を、亡くなった途端に「ケガレたもの」として キヨメるという行為は、何とも無残であり、痛ましい行為ではないでしょうか。
 私達は、必ず死を迎える時がやって来ます。死を迎えた私達の存在は、決してケガレた存在ではありません。
 葬儀に参列した時「塩でキヨメる」という行為は、 亡き人を侮辱するばかりでなく、私達の行き方をもあいまいにさせる迷信であり、一切不必要です。

 私は、この意見を慧眼だと思います。
 しかし、「清めの塩」を次の様に解釈している意見もあります。

 神道の言う「穢れ」というものは、故人自体を指すのではなく、死を招いた「邪気」を指しています。決して「故人の霊を祓うという意味ではない」

 「清めの塩」を契機として、私は、「死生観」について考えてみたいと思ったのです。人間は何故に宗教を創造(想像)したのかを考え直してみたいのです。
 宗教創造の最も大きな要因は、「死」への恐れです。生物である限り必ずおとずれる「死」は「不老不死」への妄想などもありますが、人間が求めたのは、死後の世界の存在です。「あの世」が存在するならば、「死」は恐れるものではなくなる可能性を秘めています。
 「天国」「極楽」「黄泉」「冥土」、さまざまな「あの世」を人間は創造して、それを宗教としていました。しかし、その宗教が、多くの争いを招き、殺戮を繰り返してきた歴史があります。
 人間とは、なんと愚かなのでしょうか。そう思わざるを得ないのが人間という存在です。 今の地球は、末期的な状況にあると、私は悲観的に考えています。その原因をつくっているのが人間です。歴史を学習できない人間とは、人類とは、どのような存在物であるのか、これから、このブログで考えていきます。
 

by kazu482623_m18 | 2020-02-14 14:06 | 人間という生き物