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恐竜の絶滅と人類

恐竜の絶滅と人類

 ちょと奇想天外な仮説を述べてみたい。それは人間の愚かさについてである。
 今、地球という「生き物」にとって、人間は最大の害虫(人間だから害虫でなく害人?)になりつつある。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんの声に、耳を貸さないばかりか、彼女の発言をTwitterでおちょくるトランプ米大統領を筆頭に、地球環境の悪化に鈍感な人間が多すぎる。
 私は、人間は恐竜よりはるかに劣っている存在ではないかと考えるようになってきつつある。
 恐竜の絶滅の主要因に関する説には以下のものがある。
 短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・彗星遭遇説など)。
 長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)。
 確定的定説とされているのが巨大隕石の衝突である。1980年、地質学者のウォルター・アルバレスと父親の物理学者ルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる中生界白亜系と新生界古第三系を境する粘土層(通称K-T境界層)に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であり、かつ、イリジウムは地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、大量絶滅の原因を隕石の衝突であると結論づけた。
 その後、1991年メキシコ・ユカタン半島に、直径180キロメートルの巨大クレーター(チチュルブ・クレーター)が発見され、このクレーターを形成した隕石の衝突が恐竜絶滅の原因説に信憑性をもたらした。この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であというものである。
 最初の恐竜が、は虫類の仲間から進化して生まれてきたのが、およそ2億3000万年前といわれている。 そして、巨大隕石が地球に衝突した約6600万年前に絶滅した。つまり恐竜は、2億3000万年前から6600万年前までの約1億6000万年もの長い間この地球上に存在していたことになる。
 人類が地球上に登場するのは、700万年前くらいだそうだ。最古の人類化石は、中央アフリカのサヘラントロプス・チャデンシスで発見されことが、2002年に報告された。700万~600万年前と推定されている。恐竜の生きた期間と比較にならないくらい短い。
 私は、恐竜の絶滅と人類の将来を結びつけて考えていることがある。
 恐竜を絶滅に追い込んだ隕石は、クレーターの大きさから計算すると、直径が約10キロあったことになるという。何故、これほどの隕石が地球上まで到達したのか。その後、これほどの隕石落下の情報は、私の知る限りではない。しかし、毎年5万トンもの宇宙物質が地球に落下しているという。その大半は大気圏で砕け、半ミリ以下の塵となってしまっているそうだ。
 では、なぜ6600万年前に巨大な隕石が地球に到達したのだろうか。
 私は、その頃、地球環境が破壊的な状況にあったのではないかと推測している。1億6000年もの長い期間地球に生きてきたのであるから、恐竜はとても賢い生物だったろう。しかし、その賢さ故に、長い年月をかけて地球環境を破壊していたのではないか。途中で砕け散るはずの隕石が地球上まで到達するほど、地球を取り巻く環境を恐竜たちは破壊していまっていたのではないか。1億年以上の時間をかけて。
 そんな、奇想天外、ハチャメチャな想像をめぐらしていると、人類の未来が見えてくる。
 はたして人類は、恐竜と同じくくらい生きて存在できるのだろうか。
 今のまま、地球環境を破壊し続けるなら、そう遠くない先に、巨大隕石が地球を襲うのではないか。隕石が落ちてこなくとも、オゾン層の破壊、温暖化などで、人類が生存できる環境ではなくなるのではないか。そんな気がしてならない。
 環境活動家グレタ・トゥンベリさんの声を無視続ければ、人類は100年先には、絶滅しているのではないかと私は想像してしまう。
 「お前は、その時代には、地球に存在していないだろうが」という声が聞こえそうだ。
 その声は、誰の声なのか。
 安倍晋三、ドナルド・ジョン・トランプ、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン、習近平などなどの政治家、そして彼らを取り巻く諸々の声のように思える。
 しかし、それだけではないような気もする。いま、地球上に存在する多くの人間たちの声も聞こえてくる。内田樹さんの言を借りれば、世に住む「朝三暮四」の面々だ。
(2020年3月18日)
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# by kazu482623_m18 | 2020-03-18 18:37 | 人間という生き物

広瀬健一刑場への道、そして規範

 「生きる意味」への問いから始まった広瀬健一の刑場への道、哲学徒を自認する人間として思い浮かんがことを書き綴っておこうと思う。
 彼の手記は、ヒトという考える動物の危うさを教えてくれる。
 あとで、詳しく触れたいと思うが、彼の手記を読み進むとともに、安倍晋三という政治家のことが浮かんできた。彼の精神構造が、広瀬健一の自己分析から見えてきたような気になったのだ。
 『悔悟 オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記』は、二〇一九年三月に朝日新聞出版から刊行された地下鉄サリン死刑囚の手記である。同書の帯には「獄中で綴った、かつての自己と教団への冷徹な批判的分析」とある。
 同書から、広瀬健一という人物を紹介しておくことにする。
 オウム真理教正悟師・科学技術省次官。早稲田大学大学院理工学研究科物理及び応用物理学専攻修士課程修了。一九九五年三月二十日に引き起こされた地下鉄サリン事件の実行犯。同年に逮捕され、二〇〇九年に死刑判決が確定。二〇一八年七月二十六日死刑が執行された。
 私は、彼の手記を読み進むうちに、私たちがもっている規範とは何か、その根拠はどのにあるのだろうかという疑念にかられた。
 彼の手記の一部を引用(抜粋)してみる。

 オウムの信徒の多くは、教義どおりの宗教的経験をしていました。そのため、宗教的経験そのものの「個人的現実性」に「社会的現実性」も加わり、信徒は個人的で非現実的な宗教的経験を客観的現実であるかのように認識していました。(中略)
 そして、オウムにおいては、信徒たちが客観的現実として認識していた宗教的経験を根拠とする 行動規範が定められていました。ですから、信徒にとっては、その規範も現実的だったのです。
 たとえば、殺人を救済、すなわち「善」とする規範は、輪廻転生、麻原の救済能力、および現代人の苦界への転生などに係わる宗教的経験に基づいていました。 一般的な社会通念は「命は地球より重い」ということですが、それが「この世の一生限りの命」などの日常的経験に基づいているのと同様です。
 ところがオウムでは、日常的経験のほうは、宗教的経験によって幻影とみなされ、無意味化されていました。そのために、宗教的経験に基づく行動規範が一般社会のものに取って代わっていたのです。
 実際、信徒は教団独特の規範に従い、麻原の指示であれば殺人まで犯しました。信徒の見地からは、教義の世界が幻覚的経験によって現実として知覚され、加えて、周囲の人たちもその世界観に合致した思考や行動をしていたため、教団の規範も現実的に映っていたのです。

 広瀬の手記の引用部分をどのように解釈するのか。
 私には、「殺すなかれ」が「殺すことが救済だ」と一八〇度、規範意識が変貌、変わることに驚いた。心理学をはじめ、様々な解釈があるだろうが、私にとって、人間の規範意識が激変することが驚きである。いったい規範とは、何なのか、を考えてみたい(考察という言葉は敢えてつかわない)。そこからに「人間とは何か」につなげることができるのか試みたい。
 オウムの信徒がもつに至った規範を「宗教規範」とここでは呼ぶことにする。
 そもそも規範とは、どのようなものなのだろうか。まず、よくある『広辞苑』から引用を見てみよう。
「①のり。てほん。模範。②〔哲〕(norm)のっとるべき規則。判断・評価または行為などの拠るべき基準。」
 最近は、ネットで調べてしまうので、辞書を引かなくなっている。引用したのは一九七九年発行の第二版補訂版。これはかなり古い、最新版にはどうかかれているのか興味深いところだ。
 ネットで調べてみた。
 『デジタル大辞泉』には、「1 行動や判断の基準となる模範。手本。「社会生活の―」2 《〈ドイツ〉Norm》哲学で、判断・評価・行為などの基準となるべき原則。」とある。
 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』には、「一定の行為を命令または禁止する準則 (ルール) ,当為の法則。宗教規範,道徳規範,法規範などがある。 T.パーソンズによれば,規範は,文化体系の一部を構成し,「内面化」を通して人格体系へ,「制度化」を通して社会体系へそれぞれ定着し,人間の社会的生活の連続性,一貫性を保証する。規範を個人の社会的行為からみると次の点が今日では問題となってきている。 (1) 個人がどのような規範を行為の準拠としてもち,またどの程度までそれらの規範を内面化しているか,(2) それらの規範の力関係や個人に対する拘束力の問題,(3) 一定の社会において,どのような規範が支配的であり,それがどのような集団を通して,個人に定着されるかなどである。」とある。
 広瀬は、引用したように手記の中で、彼がもっていた社会規範は、オウム真理教の信者として出家し、その集団の中に生活することで、それまでもっていた規範とは全く異なる規範をもつことになったと自己分析している。
 私は、広瀬の手記を読みながら、個々の人間がもつ規範に普遍性があるのだろうか、という思いが浮かんだ。
 道徳規範、社会規範、宗教規範、法規範、集団規範などという言葉があるが、それぞれのもつ意味は、などと考えをめぐらした。
 まず、道徳規範をネットで検索してみた。「すべての社会は、七つの普遍的な道徳規範によって結束している──。英オックスフォード大学(University of Oxford)がこのほど、そうした研究結果を発表した。」という記事を発見。
 多くの欧米文化は今、よりリベラルで階級の少ない社会へと向かいつつあるが、人類学専門誌「カレント・アンソロポロジー(Current Anthropology)」に掲載された新たな論文は、伝統的な権力構造と、慈悲や同胞愛に対する基本的な価値観が、発展を遂げた社会の礎となっていることを示唆している。
 研究チームは、世界60地域の文化について、大規模調査を実施。その結果、すべての社会が基本的な七つの道徳規範の下で営まれていることが分かった。
 これらの普遍的規範を構成するのは、家族への支援、属する集団への支援、好意に対する礼、勇敢であること、目上の人への服従、富の平等な分配、他人の財産の尊重だという。
 こうした規範には、弱った親族の世話や子孫への財産の譲渡、自身が属する集団を守る必要が生じた場合の従軍、高齢者への敬意なども含まれている。
 あらゆる社会には、それが伝統的な狩猟採集民族であろうと欧米の先進国であろうと、文明社会を支え、社会的連携を育むための支援を行うという特徴がある。
 論文の主執筆者で、オックスフォード大学認知・進化人類学研究所(Institute for Cognitive and Evolutionary Anthropology)上級研究員のオリバー・スコット・カリー(Oliver Scott Curry)博士は、「あらゆる場所で誰もが、共通の道徳規範を共有している」と語る。
 同氏は、「これら七つの道徳規範は、人々が同じような社会問題に直面していることから、あらゆる文化にとって普遍的のようだ」「こうした特徴の一部、例えば権力者への服従などは右派的、保守的に見えるかもしれない。だが、左派の人々も、集団への忠誠心、誰かか何かに対する敬意を抱いている」と述べ、「このことから、実際には、私たちを分断するのではなく結束させていることが分かる」と指摘した。
 上記の内容は、少々難解なので、一度保留しておく。
 だだし、今の安倍政権をみていると、彼らに「道徳規範」があるのだろうかと、疑いたくなる。広瀬健一の「悔悟」のように、「規範」は、状況によって変化するのではないかと。
 この問題は、私にとっては哲学的な命題の一つである。
 
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# by kazu482623_m18 | 2020-02-20 18:06 | 規範

清めの塩

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写真は、よく目にする「清めの塩」です。
 昨年11月に亡くなった義姉の葬儀の際には、「清めの塩」はありませんでした。その代わりに次の様な文章の書き付けがありました。趣旨を抜粋してみます。

 葬儀に共通した習俗の 一つとして「塩」を使うということが有ります。葬儀 における「塩」は「キヨメ」と称して使われます。「火葬場」から帰って来た時、あるいは「埋葬」から戻った 時「塩」によってキヨメてから家に入るという慣習が 広く行われています。日本の各地で広く行われているということ は、日本人の慣習であると言えるでし ょう。
 では何故、何をキヨメなければならないのでしょ うか。 それは、「死」あるいは「死者」に関わることにより「ケガレ」がうつったからだと考えられます。
 この慣習から見える ことは、私達が「死」を、あるいは「死者」を「ケガレ」として見ているという悲しい現実です。葬儀の時に「塩」を使うという行為は、 一見何でもない行為に見えます。単なる世間の慣習として行っているだけで、私達の生活には何の影も無いように見えます。しかし、「死」を「ケガレ」 とする意識は、「塩でキヨメる」という行為によってますます強くなっていきます。
 はたして、ケガレた存在としての「いのち」などというものが有るのでしょうか。そもそも「死」はケガレなのでしょうか。
 生前、父上母ょ、兄弟よ友よと呼び、親しんできた方を、亡くなった途端に「ケガレたもの」として キヨメるという行為は、何とも無残であり、痛ましい行為ではないでしょうか。
 私達は、必ず死を迎える時がやって来ます。死を迎えた私達の存在は、決してケガレた存在ではありません。
 葬儀に参列した時「塩でキヨメる」という行為は、 亡き人を侮辱するばかりでなく、私達の行き方をもあいまいにさせる迷信であり、一切不必要です。

 私は、この意見を慧眼だと思います。
 しかし、「清めの塩」を次の様に解釈している意見もあります。

 神道の言う「穢れ」というものは、故人自体を指すのではなく、死を招いた「邪気」を指しています。決して「故人の霊を祓うという意味ではない」

 「清めの塩」を契機として、私は、「死生観」について考えてみたいと思ったのです。人間は何故に宗教を創造(想像)したのかを考え直してみたいのです。
 宗教創造の最も大きな要因は、「死」への恐れです。生物である限り必ずおとずれる「死」は「不老不死」への妄想などもありますが、人間が求めたのは、死後の世界の存在です。「あの世」が存在するならば、「死」は恐れるものではなくなる可能性を秘めています。
 「天国」「極楽」「黄泉」「冥土」、さまざまな「あの世」を人間は創造して、それを宗教としていました。しかし、その宗教が、多くの争いを招き、殺戮を繰り返してきた歴史があります。
 人間とは、なんと愚かなのでしょうか。そう思わざるを得ないのが人間という存在です。 今の地球は、末期的な状況にあると、私は悲観的に考えています。その原因をつくっているのが人間です。歴史を学習できない人間とは、人類とは、どのような存在物であるのか、これから、このブログで考えていきます。
 

# by kazu482623_m18 | 2020-02-14 14:06 | 人間という生き物